吉田竜斗(2023年度ソーシャルデザイン実习/学生)
モジュール1:科学コミュニケーション概论の4回目は、隈本邦彦先生に讲义をしていただきました。科学ジャーナリストのあるべき姿を例に、科学コミュニケーターの社会の中での役割について学びました。

科学と社会との関係
かつては、専门家のような一部の人が科学について知っていて、彼らだけで物事の指针を决めるだけでよかったのです。例えば、江戸时代、金山で金を取り出す方法は、金山の周辺住民さえ知らず、幕府の山奉行だけが知っているという状况だったといいます。しかし、现在はどうでしょうか。当时、金を取り出すために铅アマルガム法を使用していました。周辺住民に知らせることなくこの方法を使っていると、铅アマルガム法で使われる铅や水银は健康被害を连想しうることから、公になった时に大バッシングを受けそうなものです。现在においては、裁判员裁判や政策决定などのように専门的判断な判断が求められる场合への市民参加が当然となりつつあります。また、科学者に向けられる视线も変化し、厳しいものとなりました。1970年に催された大阪万博では、原子力発电は「原子の火」として讃えられる最先端技术でした。「被爆国である日本が原子力を平和的に利用する」という高扬感のようなものがあったと隈本先生は言いました。しかし、2011年に発生した东京电力福岛第一原子力発电所事故の时、事故の予见ができなかったことや事故后の説明が不十分だったことから、科学者といえども全てを知っているわけではないことに市民はようやく気づいたのです。
1970年顷を契机に、自然との付き合い方に対する考え方にも変化が表れています。かつては、人间の幸福のためには、自然を征服する必要があると考える人が30%ほど存在しました。「科学の発展は、自然を征服してこそ証明される」というような考えがあったと思われます。しかし、现在ではこのような考えを持つ人は1割もいません。1970年顷公害问题に注目が集まった结果、科学の発展が人类にとって胁威になると考える人が出てきたといいます。その结果、人间の幸福のために自然を征服する必要があるという考えはなくなっていきました。
科学者と市民とのギャップ
市民の科学に対する「不安」は感情的なものであり「非論理的」であるとして、科学とは切り離されます。先の福島原発の処理水を積極的に飲みたい人はいるでしょうか?科学的にはその安全性が示されているものの、可能ならば飲みたくないというのが「素直な気持ち」でしょう。しかし、論理を大事にする科学者は「素直な気持ち」が分からなくなることもあるといいます。このように科学者 (情報の発信側) と市民 (情報の受信側) との間には大きな「ギャップ」があります。隈本先生は、「ギャップ」の存在を前提にすることが重要で、「ギャップ」を埋めるために科学ジャーナリズムが必要であることを教えてくれました。その担い手は科学ジャーナリストであり、科学技术コミュニケーターが果たすべき役割の一つです。

科学ジャーナリストの役割
科学ジャーナリストが科学者と市民とのギャップを埋めるとは言ったものの、具体的に何をすべきでしょうか。人々の意思决定に関わる部分で、大きな役割を果たすことができます。何かを判断するために情报を収集する场合、大きく分けて、二通りの方法があります。一つは、自分の力でできるだけ详しい情报を集めて判断することです。これを中心ルート処理と呼びます。私たちは様々な场面で选択を迫られますが、中心ルート処理で物事を判断することは少ないのです。多くの判断は、もう一つの方法で行われています。それが周辺ルート処理です。これは、自分では情报を集めず、他者の意见などを参考にして物事を判断するものです。ここでいう他者には様々な立场の人が想定されますが、科学ジャーナリストがその一つです。科学ジャーナリストが论文を読んだり、科学者に取材をしたりして情报を発信します。その情报を基に、市民が判断します。したがって、科学ジャーナリストの责任は非常に重いのだと、隈本先生は语ります。
では、现在の日本で科学ジャーナリストは责任を十分に果たしていると言えるのでしょうか。隈本先生は、非常に否定的でした。特に热を持って话してくれたのは、ジャーナリストが见闻きしたことをそのまま报じる姿势についてです。すなわち、「ある科学者がこのような発见をした」、「この政治家がこう言った」という“事実”しか报じず、そこに含まれる课题や问题点を一切指摘しない姿势には问题があると考えているということでした。例えば、1964年から始まった薬害は、当初ウイルスによる感染症であると报じられていた。感染症であるという説は、医者や研究者が言っていたにすぎず、记者が取材したり、详しく调べたりしたわけではありません。実际に、后になって薬害だと认められたのだから、调査に関わった医者や研究者は勿论、感染症だと报じた记者とメディアの姿势にも间违いがあったと言わざるを得ないでしょう。これを契机に改善されていれば、よかったのですが、その后の公害や颁翱痴滨顿-19をめぐる报道にも同様の姿势が见られることを嘆いていました。

讲义を受讲して
正しく伝える。これは非常に重要なことです。しかし、“事実”を伝えるだけではなく、科学者と社会との间にはギャップがあることを认识し、问题点や间违いがないか疑う姿势を持ち続けることが大切であることを学びました。これはジャーナリストに限らず、何かを発信する立场にある人全てに必要であると考えました。
