実践+発信

ここに居る意味

2020.4.6

《厂丑测濒颈驳丑迟》2018

仕切られた壁の向こうに、薄暗い空间が见えます。天井に见えるところには、照明器具のようなものがぶら下がり、ランダムな动きをしています。いつ、どの合図で动いているのかわからないまま、しばらくその动きをじっと见つめられました。

(上に吊るされた装置を、美术馆で横になって鑑赏する体験は、视点の変化によって作品を楽しめることにつながった)

2阶ほどの高さを持つ吹き抜けの空间を、阶段で降りていくと、床には座布団が円の字で置かれています。その座布団は、横になってその照明らしきものを见ている人でいっぱいでした。静かな空间、落下する装置の静かな机械音が微かに満ちた空间に入り込みました。

自然の秩序に従った、优雅な动き

この作品は、白い布が花びらのようについている照明装置が上下运动をし、同时に灯りがある秩序によって点灭する仕组みです。上下运动や点灭のルールはあるように见えますが、はっきりわからないためランダムで动くようにも、あるものに反応するようにも见えるため、想像を膨らませます。また、上下运动というより落下すると表现したくなるほど、落ちてくる时の感覚が强いのは、空気でなびく白い布の美しさがその原因だったと思います。毎回异なる形で、ゆっくりと落ちてきて、装置の动きが止まってもうっすら揺れるその瞬间に、思わず息を止めてじっと见つめるようになりました。この优雅な动きは、して生まれたと作家は言います。自然の秩序を観察?解釈し、自分たちの技术で再现して、ここに居るようにしたのです。

(横になって见下ろした作品。自然の形を思い起こす)

视点の変化

天井に近いところから见下ろす作品の様子は、文字通り上からの目线で仕组み全体を把握できます。また、动く装置をより细密に鑑赏することができ、作品の外から见ているように感じられます。一方で床に横になり、无防备な姿势で落下してくる装置を见ると、美しさも感じられる同时に、アドラクションのような紧张感も感じられます。パッと灯りが消えたり、一気に动きが止まったりする装置の的确な动きは、自然を人工的に制御していることに対する批判にもつながるように感じました。

(天井に近い视点での作品。装置のメカニズムを见つめるようになる)

ここに居ること、この体験を共有すること

お花のようにも、蝶々や鸟にも、风になびく绢の端にも、顕微镜の中でみたようなイメージにも见える《厂丑测濒颈驳丑迟》を见ながら、平和の少女像を、新闻纸で隠れた作品を、展示室の电気を消していた作品が、头の中を离れませんでした。アートはメタフォーを用いてメッセージを伝えます。さらに现代アートになると、表现手段はより多様化されます。植物も星も、自分でその场所を决めることはできません。ただ、そこに居る植物に、私たちはある情绪を胜手に覚えます。3.11后の福岛にびっしり咲いていた黄色い花セイタカアワダチソウや一本の松は、その场所にいることで意味を持ちます。あいちトリエンナーレ2019でスタジオドリフトのこの作品に出会ったからこそ、この作品を他の作品と积极的につなげて考え、深く関係づけるようになったと思います。

(表現の不自由展が中止になり、参加アーティストによって作られた 参加型展示)

表现の不自由を语ることは不自由だった

今回のあいちトリエンナーレ2019は、前代未闻の事件で有名になりました。「表现の不自由展」という芸术祭の中の企画が、会期中に中止に至ったことです。国内?外の美术界にはショックを受けた人が多かったように感じました。一方で政治の立场が経済を动かすようになったことに対しては、国の役割から、国民の権利、地域性まで、様々な立场からの议论が相次技ました。作品を芸术祭の実行委员会以外の圧力で展示できなくなったことは珍しいケースではありますが、现在のアートの位置づけが确认できる机会にもなったと思います。「表现の不自由展」の表现が不自由で展示されることは、ある意味示唆的とも言えます。その展覧会は、表现の不自由に対する「表现」が展示されているものです。

(ソウル市内でバスに乗った「平和の少女像」。なぜバスに乗せる必要があったのか、考えさせられる。2017年。出典)

同じ作品が、どの场所でどのような文脉として置かれるかも、作品を鑑赏する时の大事なポイントです。ソウルで雪が降ると市民によって帽子をかぶって座っている平和の少女像と、済州岛の静かな讲演にポツンと席を守っていたあの平和の少女像、东京では结局展示できなかったあの少女像、そしてあいちトリエンナーレで结局展示中止になり、最后だけ限定公开され、台湾で巡回展示となった平和の少女像は、それぞれ同じ形をしているにもかかわらず、その役割や意味は异なってきます。技术の発达で部屋でもワンクリックで海外有数の美术馆が所蔵する作品を高画质で楽しめる今であるこそ、ベンヤミンのアウラはより强く意味を持つようになります。解釈にはその作品を「どこ」で「いつ」、「どのように」出会ったかが、大きく作用されるのではないかと私は考えます。

あいちトリエンナーレだからこそ、アーティストは禁止に対して强く语りました。モニカ?メイヤーのように作品の形を変え、展示中止の决断をし、、観客と一绪に考える场を新たにつくりました。

バブルで社会全体が大きな消費帝国になった時も、戦争中でも、ウイルスで世界がパンデミックに落ちいた時でも、その時でしかできないことはあると思います。努力して、ある思いでわざわざ、ここに居るようにすることは話し合いの始まりで、アートを通した科学技术コミュニケーションでできる優雅で強力なことだと考えます。たくましく、繊細に、あいちトリエンナーレに居てくれた作品を思い出しながら、私の居る意味も同時に、考えるようになりました。

高嶺格《反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで》2019

(アメリカがメキシコの国境に立てようとした壁の高さがここに居る)

タリン?サイモン《隠されているものと见惯れぬものによるアメリカの目録》

(スタジオドリフトの作品の前に见た作品は、同じ场所にあるのが政治的にありえない花同志が花束になった写真作品だった。
朴 炫貞(「札幌可視化プロジェクト」実習担当教員)