実践+発信

自分事化という剧薬

2020.3.19

小田原 のどか《↓ (1946-1948 / 1923-1951) 》/2019

科学技术コミュニケーションの観点からアートを学ぶ「札幌可視化プロジェクト」実習。科学技术コミュニケーションとアートの掛け算は、なんとなくおしゃれで先端的な印象を持たれるかもしれません。しかしその組み合わせがもたらす可能性を焦点化し、言語化するのは容易ではないと私は感じています。

アートは、メディアというにはあまりにも婉曲的、にもかかわらず直接的で、伝わらない部分と伝え過ぎてしまう部分の両方を併せ持つ剧薬的なコミュニケーションです。そうやすやすと自分達の目的のために便利使いできる代物ではありません。

あいちトリエンナーレに展示されていた小田原のどかさんの《↓ (1946-1948 / 1923-1951) 》という作品は、一見すると美しいネオンの彫刻です。しかしその造形を紐解くと、長崎の原爆爆心地にかつて刺さっていた矢形標柱を模しています。

(明るく辉く矢形标柱)

なぜ爆心地にこのような构造物が建てられたのか、そしてその后の长崎における原爆慰霊碑を巡る一筋縄ではいかない経纬を小田原さんは论文の形でまとめ、展示の脇で配布しています。

(日英表记で书かれた论文)

小田原さんは、アーティストでありながら、研究者でもあります。论文と彫刻、この二つのメディアから同时に情报を受け取ることにより、彫刻だけでも、论文だけでも、伝えられないことがあることが分かります。

慰霊を表象することを巡る人々の繊细な葛藤は、彫刻だけでは汲み取ることができません。一方で、小田原さんは矢形标柱を実物そっくりに再现するのではなく、ネオン管で表现しました。その现実を超えたフィクションは、逆説的に祈りと慰霊に対する軽薄さを実感させます。アートが生み出すフィクションは、データと事実の追认で构筑される研究が抽出した様相とは异なる、しかしある一つの世界の様相を可视化してくれます。强调、ジレンマ、比较、仮定、矛盾、合成などの表现を通して、アートは事実を再构成し、事実よりも広い対象や场面に当てはめられる抽象化を行っていきます。长崎の爆心地に建てられた矢形标柱は、あの时代のあの场所に建てられた彫刻ですが、小田原さんが豊桥市に建てたネオン管の矢形标柱は、よりアノニマスであり现在进行形の形を持っています。

フィクション化は事実を抽象化し、その适応范囲を広げていきます。一方で、フィクションという表现は、虚构化した部分の意図を探られ、その部分が意図として强く伝わりすぎるという课题も持ちます。谁かのどこかの物语を、今の自分の物语にするために、アートは现実から新しい世界を创造していきます。

(キャンディス?ブレイツの《Love Story》 /2016という作品は、難民のインタビュー動画と、その動画の話をハリウッドの実力派俳優が演じるという二つの映像を使っています。何が語られるかだけでなく、誰が、どう語るのかによって印象が変わってしまうことが自ずと体験できます。)

しかし自分事となった途端に、心中穏やかではいれられないのもまた事実。科学技术コミュニケーションは自分事化するという剧薬をどこまで使いこなせるのでしょうか。そしてその薬を用いた際に、どのようなコミュニケーションの蓋をあけてしまうのでしょうか。他人の物語であるからこそ許されていた安寧を破った先にあるコミュニケーションについて、私たちはアートを通して再考する必要があるのです。

奥本 素子(「札幌可視化プロジェクト」実習担当教員)