「アイヌは狩猟採集生活を行っていた」。 5~6年前、私は高校の歴史の授業でこう教わったような記憶があります。疑うこともなかったその認識は、ある本を読むことによって、そして二風谷での出会いによってガラリと変化しました。これは一冊の本から始まった、私の二風谷取材記です。
【佐藤丈生?颁辞厂罢贰笔本科生/理学部3年】
アイヌは农耕を行っていた
道外出身で、なおかつ理系大学生の私には「アイヌ」の知识はほとんどありませんでした。二风谷取材を行うことになり(第1回参照)、まずはアイヌに関する本を探しました。そこで出会ったのが、北大出身のアイヌ研究者たちによって书かれた『アイヌ民族の歴史』1)です。読み进めていくと、北海道各地におけるアイヌの歴史に関する记述の并ぶなか、ある図に目が止まりました。「沙流郡二风谷村旧土人给与地」と题された図です。明治时代の1899年、アイヌを农耕民として定着させるという目的のため2)、北海道旧土人保护法が制定されました。この法律に基づき、给与された土地を记録したのがこの図です。

一见なんの変哲もない図ですが、この本によれば、「おそらく、幕末、あるいはより古い年代から农耕地が拡大してきた跡が区画に残っていて、それを『旧土人给与地』として配分、给与した形の表れ」とあります。実は、アイヌは狩猟採集に加えて、农耕も行っていたのです。江戸时代から明治时代にかけて北海道を探検した松浦武四郎はアイヌによる农耕を、その日誌の中で记しています4)。また、近世?近代のアイヌとまったく同じ农法ではありませんが、考古学的な调査からも、縄文时代には既に植物の栽培がなされていたと考えられています。
「今、この土地はどうなっているのだろう…」。好奇心の赴くままインターネットで现在の二风谷の航空写真を探してみると、农地の区画図によく似た地形が见つかりました。「现地で确かめたい」という思いで、私は二风谷に足を运びました。
现地、二风谷を访れる
札幌から车で约1时间半。二风谷は沙流川中流のほとりにある地域です。日高山脉に源流をもつ沙流川は、豊かな土砂をこの地にもたらし、それがこの土地の盛んな农耕を可能にしたといいます。

平取町立二風谷アイヌ文化博物館を訪れると、農耕に関する展示も多く見つかりました。また、アイヌの伝統料理を作るイベントに参加して、イナキビを主原料とした団子「シト」を作って食べました。できたてでやわらかいシトは、ほのかに甘く、どこか素朴な美味しさがあります。そしてそのイベントの最中、アイヌ文化博物館などで学芸業務に携わってきた吉原秀喜さん(平取町役場 アイヌ施策推進課 イオル整備推進係)にお会いできたのです。現地に来てよかった!


农地は现存するのか
この偶然に興奮しつつ、アイヌの农地を現在見ることができるかを吉原さんに伺ったところ、あっけない事実を知ることとなったのです。
「まあ、ダメになりましたよね。ダムの下です」

沙流川流域のアイヌは、河原や中州に堆积した粘土质の土地に「ピクタトイ」(ピクタ=川、トイ=州)と呼ばれる川洲畑を作っていました。この农法は近世に始まり、昭和20年代顷まで続いていたと言います。しかし1997年、下流域での洪水の防止等を目的とした二风谷ダムが完成し、アイヌの农地は水の底に沉んでしまったのです5)。ネットでみつけた地形は全く别のものでした。


共に农耕を再现する
しかし、アイヌの农耕は现在进行形で行われていました。吉原さんも加わっている「イオル再生事业」6)が、2008年から沙流川周辺で川洲畑を再现しているのです。二风谷ダムによって河原の环境が変わったため、完全に同じ方法で再现しているわけではないのですが、この取り组みの目的は农地の再现以外にもあると吉原さんは言います。
それは、アイヌ民族をはじめとする地域住民の方々による协働です。文献资料には様々な记録がありますが、それらはすべてをカバーしきれていません。そこで、実际に、昭和10~20年代の子どもの顷にピクタトイでの农耕を経験していた人たちに伝统的な农耕を行ってもらいます。実际に手を动かしていくことで、当时の记忆をよみがえらせることができるのです7)。研究者の文献记録と、当事者の経験によって语りだされること。吉原さん曰く「共に究めていく」作业です。
アイヌ农耕とアイヌ研究の接点
吉原さんにお会いした后、场所を教えていただき、川洲畑の试験地のひとつに向かいました。今年の场合、取材をした9月にはここでの栽培试験は一段落していましたが、そこには周囲の草とは异なる、植物が茂っていました。当初思い描いていたアイヌの农地はダムの底に沉んでいました。しかし、完全に同じではないにせよ、一度歴史と水底に沉んでしまった农地が、再び姿を现そうとしていたのです。

この旅を通して、私はアイヌ农耕の存在と実态を知ることができました。そして、大学での研究、书物による研究とは违う、様々な人と共に生み出していく新しい研究のかたちがあることも知りました。
しかし、アイヌと「研究」には良い侧面だけではありません。过去の误った研究によってアイヌ民族の尊厳は大きく伤つけられました。そして、その伤は未だに癒えていません。
注?参考文献:
- 田端宏「8章 アイヌ民族と幕末の日本」関口明?田端宏?桑原真人?瀧澤正 編『アイヌ民族の歴史』山川出版社,2015
- 旧土人保护法はアイヌを农耕民として定着させ、それによって和人への同化を図るものであった。その一环として农耕を希望する者に土地が无偿付与された。しかし、土地の権利は制限され、费用はアイヌと和人の共有财产の収益から当てられた。また、与えられた土地は农耕に适さない土地が殆どで、耕作を放弃する场合も多かった。実态としては「保护」からは程远いものであった。
- 平取町 他『アイヌ文化環境保全対策調査総括報告書』2006
- 沙流川流域の幌去村において「地形南向き畑多く、粟?稗?南瓜?胡瓜?呱吧芋?手なし?豇豆(ささげ)?麻?烟草?芜の数多く作たり」として农耕が见られたことを记している。(松浦武四郎『东虾夷日誌叁编』1863より)
- ダム予定地には、アイヌの方々の信仰や生活にとって重要な场所が数多くあった。そのためもあり、ダム建设差し止めをもとめた裁判が起こされた。详しくは中村康利『二风谷ダムを问う』(札幌自由学校「游」2001)を参照。
- アイヌの伝统的な生活の场(イオル)を再现し、その文化の継承と普及?启発を図る活动。详しくは、 ※リンクは全シート窜滨笔ダウンロード