「无知」の可能性について
長谷川 一
明治学院大学教授
2015.3.18
「颁辞厂罢贰笔の自己绍介ツールを発明する」というワークショップを実施させていただいたのは2007年10月だった。ユニークな発表が印象に残っている。
もし今また機会を与えられたら何をするだろうか。ワークショップは、たぶんもうやらない。コミュニケーションに関連し、見過ごされてきたような主題について議論してみたい。たとえば「无知」でいることについて。
「无知」はふつう、リテラシー獲得以前の未覚醒な状態と前提されている。科学技术コミュニケーション論でも同様だろう。けれど、現代社会であらゆる事柄に通暁することが不可能なのは明白だ。誰であれ、何かについてはつねに必ず「无知」でいるしかない。そのとき「无知」もまた、主題にかかわるひとつの態度や状態として受けとめることができないものか。「无知」を、解消されるべき惰性態としてでなく、何らかの力の潜勢する可能性として捉えなおす方途を探りたいのだ。
こんなことを考えるには、ぼくなりの背景がある。ここ数年おもうところあって、全国の原発笔搁施设への実见を、ひとりで続けてきた。その経験から、感じている。「よくわからないけど怖い」というような日常的感覚は、何かによって埋めあわされることなく、そのまま丸ごと救出されてよいはずだ、と。
颁辞厂罢贰笔のつぎの10年がどこをめざすのか、ぼくにはわからない。どこかで再び出会うことがあれば、うれしいとおもう。