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「动物理解を问い直す动物伦理の観点から」(11/6)久保田さゆり先生 讲义レポート

2021.11.24

天野瑠美(2021年度 選科/社会人)

「动物をどういう存在として理解していますか?」

このような質問から始まったモジュール4の3つ目の讲义は、久保田さゆり先生(日本学術振興会 特別研究員PD)による「动物理解を问い直す-动物伦理の観点から」でした。久保田先生は動物倫理や法哲学について研究する傍ら、複数の大学で教鞭を執っています。今回の讲义では、「動物を食べること」について动物伦理の視点からじっくりと考えました。

动物伦理とは?

まず、久保田先生は、动物伦理とは何かについて丁寧に説明してくれました。动物伦理とは、「人间が动物にたいしてする行為の是非を问う」ものです。より専门的な言い回しでは、「人间だけでなく、人间以外の动物が、伦理的配虑の対象であるという可能性を探求する、伦理学の一领域」と表现されます。

例えば、今回の讲义をとおして久保田先生が例に挙げた「苦痛」について考えてみましょう。人間同士の関係において、多くの人は理由もなく相手に痛みや苦しみを与えることを倫理的に悪いことであると理解していると思います。これを人間と動物の関係に置き換えた時、動物も苦痛を感じるにもかかわらず、人間は動物に苦痛を与えて良いのでしょうか? 人間が苦痛を与えてはいけない対象を人間に限定する理由はあるのでしょうか?

人间が、人间同士の関係において适切な「理由」をもとに「正しい」「悪い」と価値判断していた范囲を、人间と动物との関係にまで広げて考えることが动物伦理なのです。

适切な「理由」

動物倫理に限らず、适切な「理由」を挙げることは倫理を考える上で非常に重要です。倫理は「人を傷つけてはいけない」というように個人の行動を規制する役割を担うので、誰もが納得できる相応の理由を説明できる必要があるからです。例えば、人間同士の関係において、AさんがBさんを殴ったとします。そして、その理由について、Aさんが「Bさんのことが嫌いだから殴った」と説明したとします。この時、Bさんは殴られたことを納得できないでしょう。つまり、Aさんの述べたことは倫理の「理由」としては不十分です。

また、伦理学においては「同じ理由があてはまる状况では、同じ理由で判断を下さなければならない」という考え方が重视されます。例えば、人间と动物との関係において、「犬や猫は可爱いから守るけど、牛や豚は美味しいから食べる」では、自分が可爱いと思う动物のみを保护しているので矛盾しています。动物伦理と闻くと、动物保护や动物爱护を连想する人は多いのではないでしょうか。现在、动物の利用に疑问を提示するさまざまな理论や実践があります。中には実に真っ当だと思われるものもあれば、それとは逆に、违和感や不信感がぬぐえないものもあるでしょう。そうした违和感や不信感は、もしかすると、この「理由」の矛盾にあるのかもしれません。そう久保田先生は示唆していました

动物を食べるということ

動物倫理とは何かを理解した上で、本題の「动物を食べるということ」について考えることに讲义は進みました。ここでは、動物を食べることを正当化する際にしばしば挙げられる理由が、倫理における适切な「理由」にふさわしいのかどうかを考えました。

长い歴史の中で、多くの人间は动物を食べて生活をしてきました。「歴史的に人间は动物を利用してきたから动物を食べても良い」ということは、动物を食べる理由としてしばしば挙げられます。しかし、动物伦理は人间同士の伦理の考え方を动物にも适用するものなので、この理由では以下のようなこともまかりとおってしまいます。「人间の歴史において奴隷制は长く続いていたので、奴隷制は问题ない。」このような正当化がまかりとおるとは思えませんね。

「弱肉強食の世界では自然なことだから動物を食べても良い」という理由に対しては、人間社会が弱肉強食なのかどうかを疑う目線が必要になります。人間社会はむしろ、弱肉強食から抜け出ようとしてきたから発展したのではないかと久保田先生は言います。动物伦理の考え方で判断するのであれば、動物にのみ弱肉強食をあてはめるのは、适切な「理由」としては不向きなように思えました。

动物とは何だろう?

なるほど、動物を食べることに対する正当化の理由を細かく考えていくと、适切な「理由」として成り立たない部分があることがわかりました。とはいえ、動物倫理を自主的に考えるのは、倫理学の素人である私たち受講生にとって非常に難題でした。そこで久保田先生は、動物倫理を考える上で必要な2つの観点を提示してくださいました。

①动物がどのような存在なのかを考える
②自分たち、人间の行為のあり方について考える

これらの観点を「動物を食べること」にあてはめると、動物倫理をより易しく考えられるように感じました。動物を「食べられるための存在」として理解した場合、人間の歴史に置き換えると、奴隷として生まれた相手になら何をしても許されるのか?という问いが生まれます。また、動物を「死ぬことは問題ない存在」として理解した場合、その動物の命を奪うことだけでなく、その動物が将来経験したであろう幸福をも奪ってしまうことの是非も考える必要があります。

动物伦理と现代社会

動物倫理は繊細な話題なだけに、理解や共感だけでなく、時に衝突や軋轢を生む可能性を孕んでいます。一方で、様々な価値観を知るための貴重な機会でもあると思います。実際、讲义終了後の質疑応答で受講生から様々な疑問や意見が示されたことで、私たちがこれから理解や考察を深める必要がある事柄が、少しずつ見えてきたように思いました。

久保田先生によると、动物伦理の議論が一般社会に広まったのは1975年、女性差別や人種差別を撤廃する運動を背景に、人々が倫理的な事柄を考えやすくなっていた頃なのだそうです。この時代背景は、ジェンダーをはじめとした多様性を大切にしていく現代社会の構造と似ているように感じました。私たちは、社会の問題を有耶無耶にせず、1人ひとりが自分の意見をもって様々な選択をしていく時代の転換点に立っているのかもしれません。

おわりに

さて、このレポートを読んでいるあなたは、讲义のタイトルにもあるように「动物理解を问い直す」ことはできたでしょうか。久保田先生は、「『動物とは何か』という多くの人々が既に自分の中にもっている考えを基礎に置いて動物倫理を考えることも大切」と述べていました。久保田先生のこの提案は、これからの社会を作っていく私たちが改めて倫理を考える際の基礎となるものであると思います。久保田先生、深い学びの機会をご提供くださり、ありがとうございました。

最后にもう一度。あなたは、动物をどういう存在として理解していますか?