佐野 友宇子(2025年度本科対话の场の创造/社会人)
モジュール5-3の讲义では、マイノリティを取り巻く差别や排除が、必ずしも明确な悪意によって生じているわけではなく、むしろマジョリティの无自覚さや「当たり前」によって再生产されていることが一贯して示されていました。マイノリティ性とは、ある社会においてネガティブだと意味づけられた差异を持つことによって不利な立场に置かれる状态であり、そのネガティブさ自体が社会的に「作られてきたもの」であると、北原先生は説明します。

讲义ではアイヌ民族を例に、土地政策や教育、言语の抑圧などを通じて、制度的?构造的に差别が形成されてきた歴史が示されました。特に重要だと感じたのは、こうした差别が一部の差别的な个人によって引き起こされたのではなく、マジョリティ侧の価値観や社会の设计そのものによって正当化され、継続されてきたという点です。マジョリティは社会の中心に位置するがゆえに、自らの立场を问われることが少なく、その结果として、差别の加害性が不可视化されやすいのだと感じました。
「知らなかった」「悪気はなかった」という言叶が、差别を否定する免罪符として机能してしまうという指摘は、私自身の経験とも重なりました。私は、ある疾患を発症したことによって、后天的にマイノリティの立场に置かれた経験があります。それ以前は、社会の中でむしろマジョリティの特性を多く持ちながら、それに気づかず、自分は差别意识を持たない「善良な人间」であるという自覚をもって生きてきたのだと思います。しかし、持病を発症して立场が変わったことで、周囲からの何気ない言叶や対応が、本人にとっては深く伤つくものになり得るということを、数多く経験しました。そうした言叶や态度のほとんどは、明确な悪意によるものではなく、むしろ善意やユーモアにあふれた、気が利いた言叶として投げかけられるものだったのです。しかし、発言者にその意図がなくても、当事者の自己决定や尊厳を损なう场合があることを知りました。讲义で指摘されていたように、「相手のため」という名目で行われる行為が、実际には非対称な関係性を前提としており、対等性を欠いていることに気づかされたのです。
ここでいうマジョリティ性は、単一の属性によって决まるものではなく、国籍、民族、健康状态、性别、学歴など、复数の要素が重なり合って形成されるという点も重要だと感じました。マジョリティ性を多く持つほど、社会の设计は自分向けになりますが、その特権性は见えにくくなります。私自身も、疾患を抱える以前は、自分が「配虑される侧」であることをほとんど意识せずに过ごしてきました。その无自覚さこそが、他者の困难を见えなくしていたのだと、今は思います。
人间はそもそも、世界を理解するために区别や比较を行う存在であると、私は考えています。违いを见分け、分类し、関係づけることで物事を认识している以上、そこから価値の优劣や正常/异常といった判断が生まれてしまうのは、ある意味で自然な过程なのかもしれません。そのため、差别的な意识を完全にゼロにすることは非常に难しいでしょう。人は谁しも、无意识のうちに他者を区别し、线を引いて世界を认识しているのです。
しかし本讲义を通して、差别が「自然に生じるもの」であるからこそ、それを自覚し、抑え、问い直すこともまた人间の特性であると感じました。差别が生じること自体は避けがたいとしても、それをそのまま受け入れるのではなく、「今の认识はどこから来たのか」「自分はどの立场から见ているのか」と立ち止まることができるのも、人间だからこそだと思います。マジョリティ性を意识するとは、差别をしない完璧な存在になることではなく、自らの中にある偏りや无知と向き合い続ける姿势を持つことなのだと、讲义を通して改めて强く感じました。
差别は决して远い问题ではなく、谁もが加害者にも被害者にもなり得ます。その现実は重いものです。しかし同时に、自分の认识を更新し続けることができるという事実は、希望でもあるのではないでしょうか。差别が「避けられないもの」であったとしても、それに抗おうとし続けること自体が、共生社会に向けた実践なのだと考えます。
