不冻给水栓の製造で道内トップシェアを夸る(株)光合金製作所の井上一郎さん。昭和33年に室兰工业大学鉱山工学科を卒业し、翌年から北大工学部卫生工学科に助手として勤务。その后、光合金製作所の入社し、以来エンジニアとして、経営者としての手腕を発挥しつづけながら、様々な分野の公职、さらに「伊藤整文学赏の会」会长など、地域に根ざしたボランティア活动を続けてきました。先日80歳を迎えた井上さんにお话を伺いました。
室兰工大を卒业后、北大工学部に就职されたそうですね。
昭和34年、工学部に卫生工学科が新设され、机械系の助手として採用されました。河川、下水、微生物、产业排水などの调査が主な仕事でした。隣の讲座には、后に北大総长となった丹保宪仁さん(当时助教授)がいて、年が近かったせいか気の合う同僚として付き合いがはじまり、今でも手纸のやりとりを続けています。北大に勤めた5年间は短かったかもしれませんが、その间に当时理学部に勤めていた妻と结婚し、二人の子供にも恵まれ、充実した日々を过ごすことができました。
今でも记忆に残っている出来事は、当时の研究室にはコピー机がなかったので、自分でつくってしまったことです。もともと机械系が専门でしたから、そんなに难しいことではありません。初代の自作コピー机はガラスと水银灯を使った「青焼き机」のようなものでした。次にネガフィルムを现像するようなタイプにバージョンアップさせ、研究室の仲间たちから感谢されました。50年ぶりに思い出したのですが、懐かしいですね。でも、今の最新のコピー复合机は使えないので(笑)、毎回社员にやってもらっています。
北大の魅力はなんといってもその规模です。でもキャンパスの広さとか校舎の话ではありません。农学、理学、低温科学&丑别濒濒颈辫;といった多様な専门性をもった仲间と付き合うことができるという意味です。组合の仕事もしていましたから様々な学部の方と(时にはお酒を酌み交わしながら)议论した経験は、その后の人生において想像力の幅を広げてくれました。
丹保さんは研究を続け、私は会社の経営に携わることになりましたが、アプローチは异なってもお互い「水」を相手に仕事を続けてきました。丹保さんは「水质环境工学」の分野を切り开き、私は「不冻给水栓」の开発?进化に全力を尽くしたつもりです。よい仕事をしたいという共通の想いをもったライバルです。私はお酒の席で「水商売」という言叶を使うこともありますが(笑)、その度に丹保さんから「水稼业」と订正されるんですよね。彼は真面目ですから。
会社を成长させた原动力とは?
北大を辞めて昭和39年に小樽へ鲍ターン。父が経営していた町工场「光合金製作所」での勤务がスタートしました。世の中は高度経済成长の时代で、市民の水道に対する要求に、当时の製造部が片手间にやっていた製品の改良が追いつかない状况でした。そこで父は社内に商品开発を専门で行う部署「研究室」を新设することにしたのです。ところが、いざ研究室をつくるといってもどこから手をつけてよいかわかりません。そこで、当时、大学の研究助手をしていた私に声がかかり、长男ということもあり、父の会社を手伝うことを决心しました。
会社に入り研究室の立ち上げで様々なことを学びました。いまは异业种交流会やインターネットを使って様々な情报を手に入れることができますが、当时の中小公司には「情报」がほとんどありません。足を使って集めるしかないので。ある大手製鉄所の方から助言されたことは今でも记忆に残っています。「どんな研究开発でも必ず様々な壁にぶつかる。その时の判断こそリーダーの决断であり、壁に穴を开けて光明を见出すか、あるいは迂回して越える努力をするか、その决断の连続に迫られるよ。」その通りでした。会社のトップになってみますと、研究开発に限らず経営とは「决断」の连続でした。
今では社员の1割が商品开発の専门部署に配属されています。自社开発は、目に见える仕事の証であり、社员の「プライド」なのだと思います。不冻给水栓とその周辺机器の开発、製造、贩売に特化した専门メーカーとして、今日までなんとかやってきました。オイルショック、拓殖银行の破绽、リーマンショック&丑别濒濒颈辫;と、会社が倾きかけた时期は何度もありましたが、自社ブランドの贩売にこだわり続けたからこそ、それらの危机を乗り越えることができたのだと思っています。
創設に尽力された伊藤整文学賞には特別な思いがあったのでは ?
小樽市出身の文学者伊藤整を记念して1990年に创设した文学赏です。その数年前に、同じく北海道出身の作家、渡辺淳一さんから相谈を持ちかけられたのです。「同郷の伊藤先生には大変お世话になったので、奥様がお元気なうちに、なんとか恩返しがしたい。ぜひとも小樽で伊藤整文学赏を立ち上げたい。」という内容でした。文学に関しては素人同然でしたが、小樽のまちづくりにも関心があった斎田义孝さん(繊维メーカー社长)、西条文雪さん(住宅メーカー社长)、そして私の3人で文学赏创设に向けた手探りの挑戦が始まったのです。苦労の连続でしたが、全国へ向けて小樽から文化発信をしたいという情热さえあればなんとかなるものです。
第1回授赏式のあとに大江健叁郎さんが「地元のみなさんのボランティアで运営されていることに惊きました。このような活动は日本中を见渡しても、小樽だけでしょう。」とおっしゃってくれました。その言叶を支えになんとか25年间継続してきましたが、今年6月の第25回目を最后とします。周囲からは継続を诉える声がたくさんありましたし、私も会长としてあらゆる可能性を模索しました。その结果が终了の决断でした。先日、伊藤整のご子息、伊藤滋さん(东京大学名誉教授)と礼さん(英文学者?作家)から伝えられたことがあります。「父も母も天国で喜んでいるはずです。もう十分尽くしていただきました。ありがとうございました。」
寂しさがないといったら嘘になりますが、25年间この文学赏に関わることができたことは、私の夸りですし、満足しています。小樽市民をはじめ、支えてくださった全ての方に感谢しています。
次の世代へのメッセージをお愿いします。
のびのびと、好きなようにやってほしいと考えているので私の考えを押しつけるようなメッセージはないんですよ。でも、どうしてもと言われるなら&丑别濒濒颈辫;若者を育てる世代の方たちへ。大学が地方都市にあることを、多くの方は当然のことと思っているかもしれませんが、大学や学校はあらゆるコミュニティーの中核です。明治の経済人たちが土地や资金を寄付して、学校をつくりました。政治や产业、农业や商业のベースには学问が必要です。そのことを若者を育てる立场の大人たちに意识してほしいと希望します。大学がハブとなって、人の流れを生みだし続け、それが地域の活力となってくれるはずですから。
ポケットには携帯电话の代わりに、絵はがきと万年笔を持ち歩いているそうですね。
はい。携帯はもっていませんが不自由はありませんね。仕事柄、たくさんの方にお会いしますが、礼状として叶书を出すようにしています。1日に5枚くらいは书いているので1ヶ月では80?100枚くらいになることもありますね。电子メールは相手に开いてもらわなければ読んでもらえませんが、1枚の叶书は开封の必要もありませんから!



