2020年4月、麻豆原创に新しく2人の専任スタッフが加わりました。これから2人の素顔を绍介するインタビュー記事を公開していきます。まず1人目は原 健一さん。本記事では、インタビューを通して見えた原さんの魅力に迫ります。原さんはいったいどういう想いで、科学技術コミュニケーションの分野に飛び込んだのでしょうか。

ものを见ることへの强い兴味、ベルクソンとの出会い
ーーまず、原さんが取り组んできたことについて教えてください。
哲学史の研究をしてきました。简単に言うと、过去の哲学者の考えについて明らかにするという分野で、私はアンリ?ベルクソンというフランスの哲学者について研究してきました。ベルクソンは「见えるもの、知覚されるもの以外に记忆されるものが実在している」と主张しています。学部3年生の时にその考えに出会い、「これって俺がずっと考えたいと思っていたことじゃん!」と思ったことがきっかけです。
――「ずっと考えたいと思っていたこと」とは?
私はものを见るという経験と存在するという信念の関係について、小さい顷からすごく兴味がありました。例えば、见えないものに関して、あるものは存在していると强く思い、あるものは存在しないと思う。隣の部屋とかアメリカ大陆とかいったものは、今は见えないけれど、絶対に存在していると思いますよね。ですが、同じく目に见えない心はどうでしょう?実物として存在していると思いますか?世の中には、このような、存在しているか、していないのかのグレーゾーンにある物が本当はたくさんあるにも関わらず、素朴に白(存在する)と黒(存在しない)が切り分けられています。「この白黒ってどうやって切り分けられているんだろう?」「本当にそれって白?」ということが気になっていたのです。
研究を进めると、「私たちはものを见る时に有用なものしか见ていない」ということがベルクソンの根本的な考え方であることがわかりました。ざっくりいうと、自分たちにとって便利なものだけ存在していると思うようになっているということです。例えば、隣の部屋は见えていませんが、今、敌から逃げて隣の部屋に行く时に部屋がなかったら困りますよね。今ここを生きていくために必要なものについては存在していると认めるのです。逆に、不便なものは実物として存在していないと思うようになっています。记忆はこれにあたります。过去の记忆を思い出していたら今目の前にある状况に対処できません。例えば、今、僕が谁かに殴られそうになったとします。僕はその人の一挙手一投足に注目しないとうまく避けられません。そんなときに「昨日のラーメンうまかったなあ……」といった过去の记忆を思い出していたらうまく対処できません。このように、记忆は目の前のことを対処するためにはないものとして扱う方が便利なので、私たちは実物として知覚していない、ひいては実在していないと思い込むということです。
――私たちが见えていない(あるいは见ようとしていない、见られないようになっている)だけで、记忆という実物は存在しているという考えなのですね。考えたこともありませんでした……
今の考え方を问い直せ!?问いを大事にできる世界へ
――ベルクソンの研究を深めることもできたはずなのに、なぜ科学技术コミュニケーションの分野に飞び込んだのですか?
哲学者というのは、概念を创造する人々だと私は思っています。その时に用いられている考え方の枠组みに纳得がいっていない人々です。そこで彼らは、概念を作り直して、もう一回、新しい仕方で考えられるようにしようとしています。哲学にはこうした既存の枠组みを问い直す力があるのです。
科学者の中にも、今の概念的な枠组みに満足していない人がいます。今の概念的な枠组みだけでは解けない问题がなにやらありそうだと。例えば、现在、脳とは别に心があるというデカルトの心身二元论のような考え方はほぼ捨て去られています。脳科学の発展に伴って、「脳について明らかにすること=心について明らかにすること」になっているのです。こうなると、脳とは全く别の心というものについて明らかにするということが、そもそもできなくなりますよね。そんなものあると思っていないから。その时に、过去の哲学者の考え方を参照することで、别の可能性を见つけることができるわけです。これは哲学史研究の魅力の1つでもあります。
科学者と非科学者としての哲学者がお互いの知见を総合して研究を进めることは、一つの科学コミュニケーションだと私は思っています。颁辞厂罢贰笔の公募を见た时、今まで理论的に研究してきたことを実践できると考えました。
また、私たちが生活していく中で作られている価値観を创り直すということにも兴味があります。例えば、健康って良いことだと思いますよね。私もそれには同意します。ですが、健康であるかどうかということが、よい人间と悪い人间を区别する基準になってしまうことがあります。健康?不健康というレベルで素朴に人间を分类してしまうと、非常に人间の见方が贫しくなってしまうという侧面があります。そういった考え方から解放されて、别の仕方で人间を评価できるようにした方がよい场面もたくさんあります。このような価値観や伦理観は、科学者や哲学者といった特定のコミュニティにおいてではなく、私たち全员が生活していく中で作られるものです。なので、こうした価値観や伦理観を问い直そうとするならば、大学だけでなくて、市民の方々と一绪に何かをしていかなければならないと思っています。
「今まで自分が考えてきたことは本当に正しいことなのかな?」という、そのクエスチョンマークを植えつけてあげることが私の仕事です。私が何か明确な答えを持っているというわけではなく、私自身もそうした问いの中で変容しなくちゃいけないと思いますし、私自身に今まで気づいていなかったクエスチョンマークが出ることもあるかもしれないですね。
――2021年から始まる第6期科学技术基本计画の议论を眺めていると、人文系の存在や役割がますます大切になりそうだと感じています。原さんは、これからの世界をどのように思い描いていますか?
もっと问いを大事にできる世界にしたいと思っています。今の世界には、持っていても言叶にしちゃいけない问いがたくさんあります。これはあくまで一例ですが、実际に、ある哲学者が「なぜ人を杀してはいけないのか?」という问いを立てた时に、新闻に批判记事が掲载されたことがありました。「不谨慎だ。そんなことは普通の子どもなら问わない」というような批判です。他にも「そんなこと问わなくても良い」と言われることが世の中にはたくさんあります。しかし、そういったところにこそ问うべきことが本当はあるのではないかと私は思っています。本当に问うべきことが周りの人によって见えなくさせられている状况があると言えます。それらを问うことで初めて得られる良い気づきがあるかもしれないのに、です。
どうやら、哲学を学ぶとクエスチョンマークに気付く力が强くなるようです。皆さんが持っているクエスチョンマークや、持ってはいるけどちゃんと言い表せていないクエスチョンマークをはっきりくっきりさせるということをしてあげたいと思っています。
――科学や科学技术だけでは答えられないことはたくさんあります。発展することによって新たに生まれる问题もありますし???「问い」の役割について改めて考えさせられます。最后に、颁辞厂罢贰笔での意気込みをお愿いします!
现状に満足していない人、疑问をもっている人が颁辞厂罢贰笔には集まります。そういった人たちが问いをぶつけ合うことのできる场所に颁辞厂罢贰笔をしていけたらなと思っています。今年度はライティング?编集実习を担当します。みなさんが既に持っている疑问?问いをはっきりと形にする力を一绪に锻え上げていきたいです。
――ありがとうございました!
?取材后记?
原さんと话していると、「そもそも自分はこういう考え方をしていたのか!」という気づきが生まれることがあります。ぼんやりしていたものに线引きができるようになる感覚です。この点に関しては、原さんから「自分が何を考えていたのか后からはっきりわかるということが、哲学のすごく面白いポイントの1つ」とコメントをもらいました。多様な価値観を认め合う中で、皆さんはどのような立场で活跃したいですか?「自分は中立だ!」と思っていても、実はある主义主张に基づいた考え方を无意识のうちにしているかもしれません。ぜひ、原さんとじっっっくりと议论して、自分の新たな一面を発见してみてはいかがでしょうか。

